耳栓

森を走る。息が段々荒くなっていく。後から食満の声が聞こえて来る。でも振り向かないで潮江はひたすら森の中を駆け抜けた。身体は道でもない所を走り回った所為で草木や枝に擦れて擦り傷が酷く、所々血がにじんでいる。身に纏った忍装束もぼろぼろだった。
脚がもう動けなくなるまで走って潮江は倒れるように巨樹に凭れ掛かった。脚ががくがくと震えている。目の前が酷く揺らいだ。病み上がりの身体にこの動きは無理過ぎだったと気が付く。息も絶え絶えで落ち着かせる術が解らない。
入らない力を込めて拳を樹にぶつけた。固い物を打つ振動が手を伝う。

「くそっ……」

力の入らない脚では身体を支えきれず、到頭ずるずると身が崩れる。地面に膝が付く。それがみっともなくて潮江は常時のように頭をぶつけようと両手を木に当てた。が、そこで今この状態でそれは自殺行為だと自覚する。
ありえない物を見た。同じ声、同じ顔、潮江文次郎本人そっくりの仕草。世にたった一人である筈の自分がもう一人、そこにいた。見間違いではない。あれは神すら欺けるであろう。
信じられなくて潮江は瞬きの中で何度も目を閉じたり開けたりして確認した。そしてその度あの不気味な物は己とそっくりな顔で、気味悪く潮江を嘲った。自分が呆然としている間幾度も無く聞こえた己を呼ぶ食満の声を潮江は覚えている。だがあの声に答える余裕を潮江は持っていなかった。
食満は何も見ていなかったのであろう。でないと同じ人間が二人もいたのに驚かない筈がなかったのだ。だが見えなかったのなら、突然潮江がそこから逃げ出した訳も解らんだろうし、潮江は食満に予想以上に悪い事をした事になる。もしかすると変な誤解を招いたかも知れない。
くそっ、と心の中で叫ぶ。奥歯を噛み締めて瞼を閉じた。

「ここで何をしている。留三郎が探してるぞ」

目が見開かれる。背後からの声だ。急速に体温が下がる。くっついてしまうのではないかと思われる程強く目を瞑った。
気配が近づいて来る。速くも遅くもない。気配と共に心臓がじりじりと凍り付くような寒気で満ちていく。
声が続く。気配は後方で止まった。

「俺を探している。」
「お前じゃねぇだろ」

静かに叫んで、両手でぐっと耳を塞いだ。あの声を聞いては駄目だと脳がざわめいている。

「いや、俺だ。俺は俺で、俺も俺」

お前と言う言葉を知らぬかのように声は俺と言い続けた。

「潮江文次郎は俺だ。そしてそこの俺も潮江文次郎だ。俺は俺だ。認めろ」

そう言って、ふん、と嘲笑う。この仕草もまた潮江の物だ。噛み締めた奥歯がそろそろ痛くなる。言いたい放題に言われて潮江の怒りは限界まで込み上げた。
視界が真っ白に染まる。

「ふざけるんじゃねぇ…!俺は俺だ!潮江文次郎はこの世にたった一人、俺しかいねぇんだよ!」

気が付くと立ち上がり、振り向いて叫んでいた。両眼に映った人物の姿にしまった、と言う言葉が脳裡に浮かぶ。
瞬間、耳を塞いでいた手は力無く下へ落ちた。何があっても反応するんじゃなかった、潮江はそう思う。己の前に立つ、自分を呆然と見つめた。否定して、否定して、幾度も否定し続けた事実が目の前に当てられる。浮かぶのは絶望しかない。
中身まで同じだろうか、まさかと思っても、頭のどこかはそれも自分だと言う。
風が横を切った。頭の上から葉が乱れ落ちてくる。目の前がぐらぐらと何かに揺さぶられるみたいに揺れ始めた。

「お前は一体何者だ」
「言っただろ?俺は俺だ」
「違う!」

そんな筈がないと反論しようとして、込み上げた声は喉に止まった。息が迫る。呼吸が乱れて不安定になり始めた。喉からひゅうひゅうと変な音がする。げほ、と急に咳き込み始める。出始めた咳は止む事を知らず続いた。言葉が繋がらない。生理的に瞳に水分が篭り始める。呼吸が苦しい。脚から力が抜けた。音を立てて、身体が崩れる。頭を地面に打たれて衝撃が走る。訳の分からない雑音が聞こえ始めた。
身体が言う事を聞かない。余りの悔しさに潮江は泣きたくなった。目線だけを不気味なあれがいた場所へ動かす。涙の所為で視界はぼやけ、手近なところさえ区別できない。それでも何故かそこに己と似たあれがいるのを潮江は知っていた。

(このっばかたれな、からだ、め…が)

意識が暗闇に引き落とされる。耳周りで騒ぐ雑音が止まらなかった。

 

 

 

 

潮江の意識が戻って最初に眼に入ったのは見慣れた自室の天井だった。立花曰く、食満が背負って来たらしい。時間が随分と経ったのか外は既に暗く闇が立ち込めていた。よかった事だが、何故か己のそっくりさんは見当たらない。
潮江が安堵の胸を撫で下ろしていると、会計委員長様もへたれになったもんよ、と言いながら立花がけらけらと高い声で笑い始めた。

「勝手に笑え」
「はははっ、あ、そうだ。まだ寝るなよ。後で留三郎がまた来ると言ってたからな」
「あーー…」

潮江が呻き声を零した。そっくりしたあれに気を奪われた所為で、食満に呼ばれたにも拘らず用事を聞きもしなかった事に気が付いたのである。きっと文句を言われるに違いないと思うと頭が痛くなって来た。文句を言われたら何かを言い返さないと気が済まないし、何度かそう繰り返すうちに必ず喧嘩になってしまうのである。確かに食満との喧嘩は良い、ていうかむしろ好物であるが、今の身体の状態では無理があるのだ。

「それと……伊作からの言付けだ。治ったら覚悟してねっと言ってたぞ。楽しみだなぁ文次郎」
「…冗談じゃねぇよ」

善法寺の顔が嫌でも頭に浮かぶ。安定しろとあんなに言われたのにこの様。ましてや食満に迷惑をかけたのである。想像したくもないが多分身体が元の調子に戻ると変な薬でも飲まされるに違いない。
がらりと襖が開かれる。視線が集中する。隙間からよぉ、と顔を出したのは食満だった。ぱちりと目が合う。立花が起き上がった。そして潮江に眼をやる。

「私はちょっと外に出ていよう。用事があるんでな。それでは文次郎、くれぐれもまた倒れんように気をつけろよ?へたれ委員長様」

立花はまた笑い出して、部屋を出ていった。あの野郎、と潮江が呟く。立花の足音が遠ざかっていった。残された二人は呆れた顔で遠ざかる音の方を見つめていた。
音が消えて部屋の中が静かになる。先に静寂を破ったのは食満の方だった。目線を逸らしたまま、食満が口を開ける。

「今朝の事だが。何で急に逃げ出したんだ」

矢張り想像通りの事を問われた。だが答える事はできない。第一、言ったところで信じてもらえる筈がないのである。

「なぁ、文次郎」
「別にどうだっていいんだろ、走りたくなっただけだ」

つれない、と言うよりあからさまに自分を避けている潮江の言い様に食満が顔を顰める。伝えようとした言葉は声になれず唇だけに形を成した。何度か食満の唇がぱくぱくしてやがて顔を背けて口を噤む。そして用はこれだけだ、と言って潮江に紙を差し出した。

「じゃ、私はそろそろ帰るぞ」

そう言って、食満が立ち上がった。潮江は何も言わない。目線を壁に向けて後ろ姿すら眼に入らないようにしていた。
襖に手をかけて食満が口を開ける。

「でもお前」

声が鳴る。鳴り響いて耳を通らず直接脳内に伝ってくるみたいだ。そして雑音に紛れる。嫌な予感がした。早く、耳を塞がないと、今はどんな声も音も耳に入れては行けない、そんな気がする。
耳に手が届く瞬間に食満が言葉を繋いだ。

「何でもないならそんなにーお化けでも見るような目で私を見るな」

それだけ言ってがらりと襖が閉ざされる。部屋には潮江だけが残された。ゆらゆらと蝋燭の上で日が揺らめく。鳴り止まなさそうだった雑音は閉められる襖と共に途切れた。
潮江は食満が出て行った戸を無言で見つめた。手を上げて耳に当てる。音はしない。予感はただの予感に過ぎなかったって事だろうか。
寒気がする。直ぐ上の方からだ。

「好きだろ、留三郎の事。」

声がした。聞きたくなかった声だ。潮江は己の口を掌で塞ぐ。でも声は続く。

「今まで何度も抱いたんじゃねぇか」

声は目の前に辿っている。今度は眼をきつく閉じた。僅かな光すら入って来ないように残りの腕で目の前を覆う。
ぐるぐると回る己の声に食満の声が混ざり始めた。今まで聞いた言葉が全て混ざってごたごたになる。嫌な汗が頬を伝う。食満はここにいない、ならばこれは誰の声だ。聞こえるのは己と、己と、食満の声。でもどれが自分の声でどれが自分の声なのかはっきりしない。食満の声も何故かこれは食満の声だと分かるだけだ。

「この腕で」

なのに言葉は通じた。声が声に成り立たない中であの五文字だけが頭に浮かんだ。
この腕、は誰の腕だろう。自分の腕か。でもそれはどんな自分だろう。輪郭が曖昧になっていく。このまま溶けてしまうかも知れない、そう思った。







目が覚めた時には既に灯は消されて、いつのまにか自分は布団の中にいた。でも身体は非常に疲れている。向こうを見ると立花は戻っていなかった。ていうか、布団さえいない。外はまだ暗い。二度寝してもいいだろう、そう思って再び布団に潜ろうとした時だった。
自分が裸でいる事に気が付いた。そして身体に暖かい感触が触れている。この感触には酷く身覚えがある。
恐る恐ると視線を向ける。闇に馴染み始めた両眼は嫌でもその相手を捉えた。

(とめ、さぶろ)

驚き過ぎて声も出ない。
同じ布団の中で食満がすやすやと寝ている。見えないので分からないが触れる感触からして彼も潮江と同じく裸に違いない。
瞬きがする。一体いつの間にこうなったのか覚えていない。食満は自分の部屋に帰ったんじゃなかったのか。酒に潰れて流されてやってしまった時もここまで何もかもが空っぽではなかったのに、今は全然覚えがない。頭にも、身体にも。
警鐘が鳴り始める。このままでは危ないと、でも何が危ないのかは知らせてくれない。身体が不安に溺れていく。
ぶるりと身が震えた。じわじわと身体も魂も、全てを貪り始める影に恐怖を覚える。もう何も考えたくない、そう思って、潮江は腕の中の身体を強く抱き締めた。

2009.06.30 小梅めめ