目隠し

 夕闇が落ちて来る。空が紫色に変わり始めた。
部屋が暗くなり始めて、潮江は蝋燭に火をつけた。部屋の中が明るくなる。
会計委員会室には潮江しかいない。潮江が起きるまでの一週の間、代理を務めていた田村がつい先倒れて、三年の神崎は意識不明、一年の二人も使える様態ではなかったので、長屋に戻るように命じたのだ。
 潮江先輩、もう少し休んで下さい。田村は潮江を見た途端に立ち上がり、そう言って机の上にがくりと倒れてしまった。あの姿が思い浮かんで、まるで遺言みたいだったな、と潮江は笑った。
 他の三人は言うまでもない。そもそも、意識が残っていたのは田村だけだったのである。
 もちろん常時なら弛んどると叱る所だ。が、己の一週間の空白は流石に申し訳なかったので、みんな休むようにした。

「はぁ」

 吐息を漏らす。筆を机の上に置いた。全然意欲が湧かない。
 仕事は山ほど積もっている。同然の事だ。委員長無しで、しかも代理は四年。頑張ってもできない事はあるのだ。
 机に伏せたり、筆を回したりして、最後に部屋の片隅にふと目をやる。

(…まだあるのか)

 黒い影に、更に黒い所がある。まるで塊のようだ。大きくはない。が、目も、体もないのに、ずっと見られているような、監視されているような気がして気が収まらない。
 仕事に集中できないのも多分あれの所為であろう。
 あの黒い塊を初めて目にしたのは、一周前、目が覚めて直ぐの事だ。
 ぼんやりと目が覚めて、視界に入った天井にあの塊があった。最初は目が疲れただけだと思っていた。だが時間が経ってもあれは消えなかった。いつも少しでも目線を動かせば見える所に、あの喧しい黒い塊があるのだ。
 障子の隙間から風が吹き込んで灯火が揺れる。潮江は指で机を叩いてとんとんと音を鳴らした。その間も視線は黒い物から離れる術を知らず、映る物と同じく真黒な瞳は片隅に固定されたままだ。

「文次郎?」

 外から呼び声がした。目線が反射的に声のした方へ動く。指が止まる。音が止んだ。
 がらりと戸が開かれる。夜空を背にしてそこにいるのは食満だった。
 潮江が意識を戻す前に食満は忍務に出て行ったので、食満の姿を見るのも随分と久々の事である。

「部屋にいないと思ったら…伊作から聞いたぞ。まだ安定しなきゃ駄目だって」

 そう言いながら食満は潮江に近寄って、見下ろす。食満から森の匂いと共に、微かに火薬の匂いがする。忍務で火薬でも使っていたのだろう。鼻の奥にじんとする鉄臭い匂いが広がって、もう一回息を吸い込む。鉄の臭いは消えていた。

「ふん、そこら辺のへたれ共とは違って弛んどる暇なんざないんでな。」
「そんな事を言うならまずは顔色を何とかしろ」

 食満が眉を八の字に寄せる。潮江の顔はまだ相当青白かったから、心配せざるを得なかったのだ。

「忍務はどうだった」
「忍務?別に何もなかったけど。ちょっと擦り傷は負ったが…そんな難しいもんではなかったぞ。」
「いや、火薬の匂いがしてな」
「…火薬?」

 顔を顰めて食満が問い返した。くんくんと袖に鼻を埋めて匂いを嗅ぐ。まるで犬みたいだ、と潮江は地味に考えた。同時にちょっと可愛いかも知れないとも思ったが、頭を振って、それはないと考えを改める。

「いや何でもねぇよ。」

 もう匂いはしないし、気のせいだったかも知れない。
 食満が大きく溜め息を吐いた。少し伏せた目は心配げにも見える。

「まだ頭が完全に治ってねぇみたいだな。…早く休んだ方がいいぞ」
「分かった分かった。直ぐ終わらせるから。用事はそれだけかよ」

 潮江がわざと目を逸らす。食満が背を向けたのが気配で知った。

「折角、お前が起きたというから、一発位殴ってやろうかとしたんだけど、…早く治れよ。じゃな」

 食満が部屋を出る。潮江は止めようかと喉のすぐそこまで名前が込み上がったが、妙に照れくさくて無理矢理飲み込んだ。彼が見えなくなった時になってから、潮江は逸らしていた視線を戻し、戸を見つめた。外は真暗だ。時折に風が吹き込んで来る。季節は夏で、風さえ暑くなっていた。風に合わせて蝋燭の上で火がゆらりと揺れる。
 刹那、目の前がぐらりと一瞬だけ暗くなった。目を閉じて瞼を擦る。顔を下げ、机を見つめたままぱちぱちと目を瞬いた。

「まったく…調子が狂う」

 弱まった己の体を叱咤する。ここに食満がいなくてよかったと思う。いつも対等である相手にこんな姿は見せたくなかった。
 もう戻ろうか、と顔を上げて、外を見た時だ。潮江の瞳が大きく開かれる。
 障子の横に黒い塊があった。先見た時より、長く、大きくなっている。人の影みたいな形だ。
 得体の知れない物を前にして身に覚えのない恐怖が襲って来る。だがその恐怖は津波の如く一気にかかってくる物ではなく、心臓の奥底からじわじわと広がり始めて、あっという間に全身に満ちる物であった。冷や汗が流れ始める。
 目が合った、と思う。はっきりしないのはそれは全身が真黒でどこに目があるか分からない為だ。
 潮江は動けなくなった。麻痺した時のように体が言う事を利かない。頭は五月蝿い程に「ここから逃げろ」と命じている。なのに体だけが凍り付いて動けなかった。

 

 

 

 潮江が部屋を出たのは余りの遅さに心配した立花が潮江を呼びに来てからだった。
 立花らしくない行動であったので何故迎えに来たかと問うたら、立花曰く、病者だから、と答えた。
 どうやらあの黒い物は潮江以外の人には見えないらしい。ただ影の中にいただけの小さかった頃は兎も角、こんなに大きくなっていると言うのに、誰もおかしく思ってないのだ。
 大きくなった影は矢張り人の形をしていて、丁度潮江程の大きさである。足ができたからかちょろちょろと潮江の後を付き纏っている。時々、潮江が走って逃げた事もあった。だが逃げ切れたかと思った途端に、何時も黒い物は目の前にいた。
寝ても寝た感じがしなかった。夜更かしとかではない。確かに潮江はどうにか寝始めたが、見られているような不気味さに夢心地が良い筈がない。更に、目が覚めて最初見た物が枕元で正座しているあれだったのだ。
 体調不良に睡眠不足まで加えて潮江の顔はかなり酷い物になっている。最初に潮江の顔を見た立花はけらけらと声高く笑った。そして食堂で会った善法寺は怒りを押さえながら、まさか鍛錬…じゃないだろうね、と低い声で呟き始めて、果てに廊下で出会した七松は、文次郎今日顔すごいね!三遷の川でも渡って来たの、と無邪気な顔をして何とも言えない言葉を吐いていたのだ。
 今、会計委員会室にて、潮江の前にいる田村の表情も言葉にはできない。彼は隠そうともせず顔を逸らした。偶々目線だけ潮江に向えて、直ぐまた逸らす。

「せん、ぱい。昨日より酷いですね。顔。」
「…何も言うな」

 一年は壁を見ている。神崎は行方不明だ。一年の加藤が、左門先輩羨ましい、と呟く。それに気付いて田村が団蔵、と叱った。

「あ、そうだ。食満先輩が探していましたよ。予算の事で話があるとか」
「留三郎が?」
「はい。用具倉庫で待ってると伝えてくれ、と」
「昨日言ったら良かった物をあいつは…分かった。行って来る。遊んでるんじゃねぇぞ」

 はーい、と答える一年生の声を背にして潮江は委員会室を出た。
 日がよく晴れている。風も昨日より少しは涼しくなった。倉庫に着いて、潮江はまた黒い物に気が付いた。先まで後にいた筈だ。なのに何時先回りしたのか、あれは倉庫の前でじっと潮江を見つめていた。
 息を呑み込む。黒い物の横を通って倉庫に入った。横目でみると、あれも潮江の後を追って倉庫に入って来た。気が騒ぐ。
 倉庫に入ると、奥でがたがたと音がした。そこへと足を運ぶ。ぎしぎしと床が鳴った。その音は一人分の物だ。潮江が足を止めると音は立たず、潮江の足が床を踏んだ時だけ、床が鳴る。
 倉庫の奥に食満がいた。片付けが終わってないらしく、何かしらを急いで運んでいる。

「おい、来たぞ」
「ああ。文次郎か、ちょっと待ってくれ。もうすぐで終わる」

 目もやらず食満が声だけで返事した。瞬間、後の気配が変わる。
 良からぬ予感が頭を過ぎた。後には誰もいなかった筈だ。あの気色悪い物を除いては。

「これが食満留三郎、か」

 何者かが興味深く言った。後から。聞き慣れた、よく知っている声だ。潮江はその声が誰の物かを知っていた。だから、ありえないと、そう思いながらも恐る恐ると、振り返る。

(ありえねぇ、これは)

 驚かざるを得ない。身に纏った深禄の忍装束、目の下にある隈、聞き慣れた声。いや、そんな物を見なくたって分かる。
 食満が自分を呼んでいる。耳に食満の声が聞こえた。近くでする声なのに、何故か遠くから聞こえるようだった。耳障りが酷い。雑音に紛れて食満の声まで失ってしまいそうになる。
 目の前に立つ男が口を開ける。

「確かに、俺の趣味にもびったりだな」

 同じ顔、同じ声、同じ仕草。何一つ違う、と言える物がない。
 不敵な笑みを浮かべながら目の前に立ち尽くしているのは、どう見ても水に映った自分と同じ、潮江文次郎だった。

2009.06.02 小梅めめ