夕べ、潮江が忍務から戻って来た。立花に背負われて。
酷い怪我を負ったと聞く。命に問題はないけど、暫く激しい鍛錬は無理だね、と善法寺が寝込んだ潮江の側で溜め息を吐いていた。
「文次郎が無理をしなきゃいいんだけど」
善法寺が眉を八の字にして軽く微笑んでは顔を上げた。見上げる視線の先には戸の前に突っ立っている食満がいる。赤ん坊を見守るような柔らかい視線で見つめられて、食満が逃げるように視線を潮江の方に落とした。気のせいか目下の隈がより深くなった気がする。肌も蒼白でいつものぎんぎんとした彼を思い浮かべられない。
「だから暫くは喧嘩はしないで?」
「私は悪くねーよ。元々こいつが突っかかってくるんだぜ。説教ならこいつにやれよ」
視線を潮江に固定したまま返事をした。それを聞いた善法寺がふふ、と喉の奥から笑い声を零す。
「文次郎が喧嘩を売っても留さんが耐えたらいいんじゃないかい。しばらくだよ。しばらく」
ちょっと水持って来るね、と善法寺が腰を上げた。既に暗くなった外を見て、善法寺は蝋燭に灯を点した。そして手をひらひらと振っては遠ざかって行く。その間も食満の視線は潮江から離れる事がなかった。
食満が医務室の中に足を入れると、むっと濃くて苦い薬の匂が押し寄せて来た。食満は自然と顔を顰める。鼻が痺れそうだった。同室の善法寺が始終薬の匂いを体に纏わせているため、こんな匂いには疾っくに慣れていると思っていたが、そうでもなかったらしい。
無言のままで横たわった潮江の側に腰を下ろした。部屋はごく静かで耳には蒸気立つ音しか聞こえない。
日が暮れて薄暗くなった部屋をめらめらと朱色の灯火が燃え照らしている。燭台の上で炎が揺れ、それにつれて影が揺らぐ。炎に照らされても潮江の顔色はやはり青白く見えて、胸が苦しくなった。
彼の周りを見渡す。既に委員会の後輩達がお見舞いに来ていたのだろう。枕元には団子や、花、理由ははからないが算盤などが置かれている。常にそのくそ重い算盤を持って走っていた姿が瞼に浮かんで、乾いた笑いを零した。
潮江の薄く開かれた口からは弱い息が漏れるだけだった。汗が酷い。その顔が苦しそうだったからか、食満は無意識に手を伸ばした。そして汗で額にべったりと張り付いた髪を掻き揚げる。潮江がう、と意味を持たない呻き声を上げた。
暫くじっと見つめて、屈み込む。目の前に潮江の顔が見えた。つられたかのように彼の額に唇を当てる。吸い込んだ息から汗の匂いと共に微かな血の匂いがした。囲むように、両腕で潮江の頭を抱き締める。
(大丈夫だ。六年生だから、たかがこんな事で死ぬ訳がない。ましてやこいつはあの潮江文次郎だから)
炎が揺らいで顔に影を落とす。外で猫の鳴き声が聞こえた。
闇が舞い降りて夜が深まって行く。
潮江が目を覚ましたのはそれから三日後の事であった。