呼吸の隙間にに噎せる湯煙の熱さに喉が苦しい。食満は行く所のない手が己に覆い被っている男の背中を掴んだ。男からあれだけ臭ってた汗の匂いは今は風呂の色んな匂いに隠れてちっともしない。
食満を追い詰める男の動きに力はあった。が、どこか疲れを感じる。それもそうだろう。先までお互い全力で殴り合っていたのだ。相対的に体力が低いとは言え、食満も相当疲れを感じるのに、男が疲れてない筈がない。
(飴をやらんとな)
心で呟いて、食満は残りの腕を男の首に回し、寄せる。すると男は心の底から嬉しそうにして両腕で自分を抱き締めた。食満が予想したままの結果である。我知らず笑い声が漏れそうになるのを何とか押さえた。
留三郎、と、潮江が熱を含んだ声で食満を呼ぶ。声に理性は残っておらず、あるのは純粋な欲望だけであった。このような、甘ったれで素直な、それこそ戦う会計委員長とは思えない姿に食満はいつも呆れを覚える。弛むなと言ってたのは一体誰だったのか。
ーー必死だなぁ、文次郎。今でも飛び出しそうな言葉を喉で飲み込み食満は口の端を吊り上げた。おかしい事だが体だけが異常に熱くて頭は非常に冷めている。こんなに冷静になれるなら忍務の時になれたらいいのに、と頭のどこかで考える。
今この状況、嘲りたくもある。常にあれだけ殴り合う相手が、自分をひたすら否定し続けた本人が、情事の時や二人だけになるとこんなにも食満を求めて体を寄せてくるのだ。しかも、恐らく、潮江は食満も彼の事を好いてあるとーそれこそとんでもない思い違いをしている。本当に馬鹿みたいだ。
彼がもっと喜ぶように、食満は潮江の体に回した腕に力を込めた。自分がどうしたら潮江が喜ぶか食満はそれをよく知っている。
(ざまぁみろ。幾ら喧嘩で勝とうか、どうせてめぇは私に勝てない。ほら、今もな)
律動が激しくなった。興奮すると潮江はその興奮が直ぐ行動に出て面白くも解りやすい。奥を突かれ、擦られて、汚い肉棒と一緒に熱いお湯まで体内に押し込んで来る。己の中で存分と暴れ回るであろうその様子を想像してみると気持ちが悪くなって来た。でも律動にあわせて視界はぼやけ始める。理性は冷静なまま、込み上げる吐き気よりも強い快楽に責められて、段々何も考えられなくなっていく。
「あっ、はぁ、…は……あああ」
首筋を舐められ、時には噛まれて、両手によってねっとりと体を撫で回される。自分の口から漏れる高い声が遠くから聞こえた。息は今にも絶えそうに弱々しい。
突然、体を引き寄せられ、潮江の性器を根本まで沈まされる。内蔵を抉られる感覚に食満は一瞬、痺れを覚えた。目の前が真っ白になる。
「ん、……っ」
体が痙攣して、力が抜けてからになって食満は己が射精した事が分かった。脱力感が全身を襲う。脱力した身体が小刻みに震える。
息を整える暇も与えられず、激しく身体を揺さぶられる。耳の直ぐそこから小さく呻き声を感じた。そして緊張する間もなく、腹の中で熱い粘液が吐き出される。どれだけ回数を重ねても長々と放出される、この感覚は慣れる物ではない。耐えられなくて食満は潮江の背にしがみついた。
(ああー…絶対にこれは処理が面倒くなる)
事が終わって体内に埋まれていた汚物がぬるぬると抜けていく。それにつれ、深く溜めていた息を吐いた。先まで繋がっていた所をちらっと流し目で見る。白濁した精液が流れ出て、お湯に浮かんでいくのが見えた。吐きそうになる。食満はその余りにも不潔な光景から目線を逸らした。
抱き合った身体が溶けてしまうのではないかと思う程に熱い。なのに、頭は常より冷静で。己を抱いたまま離さない潮江を眺めながら、食満はちょっと不思議に思った。
食満は潮江との性行為が汚いと思ってはいるが、別に嫌だとは思ってない。頭だけが嫌な程冷めているだけで体はそこそこ快楽を拾ってくる。それにむしろ体の相性は抜群であり行為自体はかなり気持ちいい物だ。
段々身が怠くなって来て、考えるのが面倒くなる。身体と頭のバランスなんてどうでも良さそうな気がして来た。どうせこの付き合いも学園でのままごとに過ぎないのだ。頭が冷めたままだから潮江を見下ろす気分も味わえるし、それでも体は快楽を感じ取って、気持ちはいいものからこれこそが一石二鳥かも知れない。食満はそう思った。
食満留三郎と言う人は、見た目より随分と冷たい人間である。もちろん委員会活動の時や、同級生の善法寺に見せる世話焼きな姿も彼の本質であり、偽りの姿ではない。食満は己が持つありっだけの情を他人に注ぐ人物なのだ。だが、それはあくまでここが学園であるからである。彼は心の奥底では学園で作った関係はここを出た途端に、まるで何も書かれてない白紙のように無くなるものだと誰よりもよく知っていた。
食満のその考えは彼の好敵手である潮江文次郎との関係に対しても同じだった。
いつも喧嘩ばかりで、白と言え黒、黒と言えば白。気があった事なんて数えるに片手で足りるくらいだ。故に、これならたとえば敵として会っても私情に捕われる事無く殺せるとまで思ったのである。
ずっと食満はそう考えていた。だがこれは言い方を変えると食満だけがそう思っていた事にもなる。食満がその事を知ったのは五年の夏頃であった。
五年の夏のある日、いつもの喧嘩の後で好きだと告げられた。
草むらの中、喧嘩の成り行きで潮江に押し倒されたのを食満は覚えている。むせ返る草の匂いが酷かった。後首に草が当たる。自然と潮江を見上げるようになった。見上げた潮江の顔色が段々朱色に変わっていく。熟した林檎のように赤くなった顔は潮江には似合わなかった。
「好きだ」
潮江の声は、とてつもなく低くて熱に浮かれていた。常に暑苦しい彼であるが彼のあんな声は聞いた事がない。
食満が尋ねる。
「誰が」
呆然としていて、その瞳からは驚きも喜びも、悲しみも、どんな感情も感じられなかった。その顔に誰よりも驚いたのは潮江の真黒な瞳に映る無感情な己の姿を見た食満であった。
「お前が」
食満の上に影が降りて来る。唇に柔らかい感触がした。口付けられているな、と思う。何度も角度を変えて触れるだけの口付けを繰り返される。潮江はその間も幾度もなく好きだと囈言のように言い続けた。
それが彼の偽らざる思いだと知っていた。物質的な根拠はない。だが戯れでも思い込みなく、純粋に、潮江は己の事が好いていると食満はよくわかっている。
(必死だな、文次郎)
頭はいつにない程冷めていた。
ただ幾度も重ねられる唇に体だけが生理的な反応を示し、熱を帯び始める。
遊びにはちょうどいいかも知れない。どうせ、学園を出たら敵になるかどうかも知れない関係だ。卒業するまでのままごとなら付き合ってもいいだろう。
良からぬ考えだとは分かっていた。でも誰も知らない潮江を見るのも面白いかも知れない。
そんな風に、ある意味では残酷な遊戯として、食満は潮江の告白を受け入れたのである。