視界は湯気で白くぼかされている。体内から吹き上がる熱に水と体の輪郭が曖昧になりそうだ。頭までとろけそうな風呂に体は大分満足している。が、頭がもやもやする。文次郎はその原因ー少し離れた位置で己を睨んでいる後輩、富松作兵衛を流し目で覗き込んだ。
一瞬、視線が絡み合う。身を貫かれるような強い視線でお互いを睨む。幼いながらも強烈な視線に体に電流が流れた気さえした。
そう言えば、この後輩は3年のあの迷子達を制する事ができる、数少ない人達の一人だった。3年の迷子の中には文次郎が率いる会計委員会の神崎左門も含まれていて、迷子達の扱いがどれだけ大変な物かは文次郎もよく知っている。それに4年、5年の内誰もいない用具委員会では3年の彼こそが用具委員長代理なのだ。そう思うと、このまた小さな後輩もかなりの強敵に思えて来た。
睨めば睨まれ、そっぽを向くとそっぽを向かれる。対抗意識の強い後輩とは本当に困った物だ、と文次郎は思った。何よりも何故あれほど反発するのか、その理由を良く判っているからこそ困るのである。
作兵衛は彼の先輩であり文次郎の同級生である人、留三郎を好いている。文次郎はそう確信していた。そうでないとお互い委員会も違って、学年も大分離れた文次郎に対する恐ろしいほどの対抗意識や、文次郎が留三郎と一緒にいると彼から放される殺意が説明できない。それに憧れの先輩としては、留三郎に向けられる視線や声が色を浴びすぎている。でもかなり年が離れているからか、文次郎にとって作兵衛はまだ恋敵と言うより、生意気な後輩だ。
(この餓鬼が)
風呂に二人きり、しかも一緒にいるのは恋敵視されている相手。まだ幼い後輩とは言え、針に突かれるような痛い視線を好んで受け取る文次郎ではない。それにそろそろ風呂の熱さに頭が負けそうなのだ。6年生もなって、剰え学園一番忍者している潮江文次郎がーなんて、洒落にならない。
針のように身を貫く視線、立ち上がりたくともそうできないまずい(ただ立ち上がったら負ける気がするから作兵衛より先に出て行けないだけだが)雰囲気。
耐えきれず、文次郎が作兵衛の方に振り向いた。
「富松、」
呼びながら作兵衛の方へ手を伸ばす。すると真っ赤な顔の作兵衛が振り向いた。それこそ気持ち悪いと言っているような目つきで。そして水面を叩き、文次郎に湯を振り掛ける。
「潮江先輩こっちに来ないで下せぇよ。こっちまで湯が汚れるんじゃないっすか。あと俺を見ないでくれます?べたべたして気味わりぃっすから」
悪意が精一杯籠っている言葉の連鎖に、文次郎は何も言えなくなる。
そしてまた二人の間に沈黙が訪ねた。
(何でこうなったんだか…)
色々と意識がくらくらとして来て、深く息を吐いた。
夢中になりすぎて鍛錬が長引いてしまった。
今日小平太は校外実習で鍛錬に参加していないので、多分学園で眠りについていないのは文次郎だけだろう。疲れた体が睡眠を欲しがっているが、体が汗まみれで臭くてこのままでは眠れない。
誰もいないと思った風呂に入ると、前に二つの服が入った籠が置かれていた。
(こんな時間に…一体誰だ)
遅くまで起きている人が中々思いつかない。可笑しいと思いながら、文次郎は戸を開いた。
戸を開くと白い湯けが狭間から勢い良く広がる。一気に視界を塞がれた。湯けが薄くなって中を見ると、誰かが手を振っていて、その隣にもう一人、小さい人影がいる。食満留三郎と富松作兵衛だ。
「よ、遅かったな」
「ちわっす、潮江先輩」
普段なら留三郎が喧嘩を売る言葉の一つや二つを吐く所だが、隣に作兵衛がいるからだろうか。留三郎は笑顔で馴れ馴れしく文次郎に手を振る。遠くでも留三郎の体が赤く染まっているのがわかった。
そこから、身を洗い終わるまでは何の問題もなかった。水音の所為で会話の内容はよく聞こえなかったけど、留三郎は作兵衛と何やら話していているらしく、文次郎とは一言も交わしていないので喧嘩になる事もなかったのである。(時々文次郎が留三郎を見て、視線が絡んだ事はあるが)
ただ、後からずっとじろじろと見られているような殺意を浴びた気配を除いては。
(これは富松だな。でも)
どうしても自分に噛み付きたがる何時もの彼を思うと答えはすぐに出た。だが、今は何もできない。
作兵衛だけそこにいたら、問い詰められたかもしれない。けど、今は留三郎が一緒にいる。多分、いや、きっと後輩思いの留三郎は文次郎が作兵衛を問い詰めた途端噛み付いて来るに違いない。
ー私の後輩に何をする、と。
留三郎が文次郎と喧嘩をするだけならいいが、もしこれが原因で彼が文次郎を嫌いになったりしたら、それこそあの生意気な後輩の望み通りなのだ。
結局文次郎は作兵衛の殺意を含んだ視線に耐え続けた。そして風呂に入ろうとした時、事件が起きた。
文次郎が湯船につかろうとした時、留三郎がお風呂から上がった。
何時もはつんとしている目つきが柔らかくなっている。視線を下へ移すと、白い脚が仄かに赤らんでいた。じっと見ていると、嫌な視線を感じる。
「…上がるのか」
「あ、文次郎」
気付かないふりをして留三郎に話をかけると、同時にまだお風呂から上がってない作兵衛が顔色を変える。
「よかった。作兵衛、お前は後で出ろ」
「はぁ?」
「留三郎せんーぱいー!」
訳の分からない留三郎の台詞に、文次郎が顔をしかめる。
「作兵衛の事は気にするな」
「でも潮江先輩は…!ってちょっと潮江先輩!留三郎先輩を見ないで下さいよ!先輩が汚れちゃうんじゃないっすか!」
大袈裟に叫びながら作兵衛が留三郎と文次郎の間に立ち塞がった。
…汚れる?文次郎は作兵衛が何を言っているのかそろそろ分かる様な気がして来た。(こいつ…俺を何だと思ってんだ)
「作兵衛ー!先輩にそんな言い方はないだろ!」
文次郎が何を考えているのかも分からないで、留三郎が怒鳴って作兵衛を叱咤した。文次郎は叱咤する所がずれていると思ったが、言っても分かってくれないと確信したので、何も言わない。
「罰で文次郎と一緒に上がって来いよ。絶対文次郎が上がるまで出ちゃ行けないからな」
「えー…!そ、そんな!先輩!」
外で待ってるからな、と留三郎が先に出て行く。
そしてまた、沈黙。重い空気が二人の間を埋める。
「先輩は信じてくれなかったけど、潮江先輩。見てたですね」
留三郎が出るのを確認して、作兵衛が呟いた。文次郎が何を、と返そうとした時、作兵衛が先に口を開けた。
「留三郎先輩の…太股」
もし文次郎がお水でも飲んでいたらきっと吹いたに違いない。
確かに見てなかった、と言えば嘘になる。普段見れない所だし、白い肌が湯上がりでうっすら朱色に染まっているのを見ると、むらむらするのも事実であった。もちろん無意識に目が追っていたり顔を見るふりをして視線は…だったりしていた。が、ここまで核心を突かれると「はい、見ていました。そしてむらむらしました」とは…何があろうと言えなかったのだ。
結局文次郎は作兵衛の核心を貫いた質問に対して、何の反応も示さなかった。すると作兵衛も何も言わなくなり、また重く気まずい長い沈黙が訪れたのである。
留三郎は「文次郎と一緒に上がってこいよ」と言った。それは多分、作兵衛が耐えられなくなったら出てこいよ、の意味だろう。だが、文次郎にとってこれは生意気な後輩を制圧できる少ない機会だと思われた。
(いつも留三郎の奴が邪魔臭いし…富松にはすまないがとどめを刺しておこう)
熱い時間が過ぎて行く。
「文次郎。私は作兵衛をのぼせろとは言ってない」
外で待っていた留三郎が目にしたのは、真っ赤になった作兵衛を背負った文次郎だった。
溜め息を吐いて、両手を伸ばす。文次郎は何も言わず作兵衛を留三郎に渡した。
作兵衛を抱きとめると、せんぱいー、と呻きながら抱きついて来る。
「大体、お前は俺に何も言ってないぞ」
「そりゃ…まぁ、言ってないけど、わかってくれると思った」
留三郎が視線をそらす。ちらりと覗く耳が朱色に染まっていた。
「作兵衛の奴。お前が気に入らねぇらしくてさ、お前等二人きりでいれば変わるかも、と」
「なぁ…留三郎」
気持ちはわかるがそれは違う、と言いたい所だったが、気が抜けてしまって文次郎は何も言う事ができなかった。頭を掻く。言葉が喉まで上がって、出ない。もどかしさに横を向いた。
「文次郎」
留三郎に呼ばれて、柔らかい感触が頬に触れた。驚いて瞳が大きく開かれる。
「今日は、すまない。その、作兵衛が迷惑をかけたな」
刹那、息が詰まって、思わず文次郎は彼を抱き締めようとした。が、顔に痛みが走る。
「まだ、まけたわけじゃ、ねぇっすから」
どうやらこの後輩は予想より強かったらしい。